剣道とキリスト教

古来稀なり

剣道の範士、キリスト教の範士

「剣道の範士、キリスト教の範士」
 
実際に指導や薫陶を受けたことを前提とすると、剣道ではいつも二人の先生(師範)を思い浮かべます。
 
キリスト教信仰では、・・・・一人の牧者を「師範」と思い起こしますし、出会った数名の伝道者の先生方も、「師範」と呼べるのかも、と思わされます。
最も、折々にその姿に習うべき「我が師」は、剣道、信仰ともに、大勢おられるのかもしれません。
 
しかし・・・、「自ら範を示す」という意味で「師範」となるべき年齢を、はるかに過ぎてしまっている<私>のようにも思わされます。
 
・・・・・
 
一人の牧者が召天されて、7月20日でちょうど三十年。
<私>、来月には「古来稀なり」の「マイルストーン」、あるいは「一里塚」。(^^;) 💦
 
 
ところで、剣道の「範士」の称号は、八段(剣道の最高の段)をはるかに超えて与えられるものですが、キリスト教の「範士」の称号は、どのように与えられるのだろう?
 
使徒パウロが語った「義の栄冠」が、それなのかもしれない、とも思う昨今です。
 

『天に帰られた伝道者の姿と信仰を覚えて』  クリック↓
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使徒パウロが、弟子のテモテに送った2通の手紙。
(テモテへの手紙 第二 4章1〜8節)
 
1
神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5
けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
6
私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
7
私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8
あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。