剣道とキリスト教

キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―


キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―

 駒場エデン教会牧師  笹森 建美

 私は教会の牧師であると同時に、日本古来から伝わる小野派一刀流という剣術や、林崎流という抜刀術、直元流という大長刀術の宗家を継いでいます。そのため、「教会の牧師と剣道や武道とは矛盾しませんか」とよく聞かれます。「キリスト教と武道とは矛盾しないのか」という質問は、依然として日本の中に、キリスト教と武道は正反対の立場にあるのではないかという考えが存在するからでしょう。

 内村鑑三がある人から武士道とキリスト教はなじまないのではという指摘を受けた時、彼は自分が武士であると誇りを持っていたので、憮然として「いや、そんなことはない。武士道とキリスト教は一致するのだ」と述べています。彼は特に強調して次のようなことを言っています。
「イエスとその弟子を武士の模範として見ることができる。例えば、キリスト教と武士道の共通点は、両者とも真実、あるいは正義、嘘をつかない、人をだまさないということをとても大事にしていることである。武士道は勇気であって義のために死を恐れない。一方パウロも、人から自分が恥を受けるようなことをしたくない、自分の誇りを失われるならば死んだほうがましだ、と言っているように、パウロこそ私たちの模範とすべき武士なのだ。」さらに、パウロの「私たちは生きるのも死ぬのも主のために生き、すべては主にあって益である。死ぬのも益である。生きるのも益である」という言葉を引用して、「生きるのも死ぬのも私の身によって何かが現されること。キリスト教の場合はイエスの栄光、神の栄光が現れること。武士道においては正義とか公正というものが現れること。そのためには命を懸けてもいいのだ。それが両者に共通する点なのだ」と述べています。
 剣の道である武士道も、キリスト教信仰も、人の死に方あるいは生き方を真剣に問いかけているのです。

『葉隠』という本の中に面白い逸話があります。昔の武将の新田義貞が勝ち目のない戦に望んで行き、敵に囲まれて死ななければならなくなったときに、自分で首をかき切り、地面に穴を掘って自分の首をそこに入れて、その上に横になって自分の首を守り通した、というのです。著者の山本常朝はこのように言っています。「真の剛の者というのは何も言わずにそっと抜け出して死に赴くものである。相手をしとめる必要はない。黙って切り殺される者が剛の者なのだ。このような者は相手をしとめることができるものである。」つまり、本当に強い人は何も言わずそっと出て行き首を差し出して死ねる。そして、自分の首を差し出すことができる人、その人が実は相手に勝っているのだ。これが武士道の精神です。決してただの狂気ではありません。

 キリスト教の信仰を思い起こしてみますと、キリスト教が世界に広まっていく過程で多くの迫害を受けました。最初に迫害を受けたステファノは、石を投げられて殺される時に、「私を殺そうとしている人たちは、何をしているのか分からないのです。彼らの魂をお赦しください」と天を仰いで祈っています。本当に馬鹿げた狂気にしか見えない行動です。その時にステファノを殺すことに賛成していた人がパウロでした。ステファノを殺すことに、すなわちクリスチャンを殺すことに自分の情熱を燃やしていたパウロが、その後回心しキリスト教を伝える側に変わってしまいました。ステファノの死は決して犬死にではなかったのです。彼の死こそが、パウロの魂の中にある何かに語りかけていたのです。初代のクリスチャンたちは、見方によっては、唯々諾々として殺されていきました。しかし逆に、それによって福音が全世界に及んでいったのです。

 実は、この精神はイエス御自身にありました。イエスが十字架にかかった時にユダヤの人々はイエスを罵りました。「お前がもし本当に神の子ならば、今その十字架から降りてこい」、「何故今すぐ味方の軍勢を呼びここで革命を起こさないのだ。そうしたら我々はお前を信じよう。」その時に十字架のイエスは、神に対して「この人たちは何をしているのか分からないのです。彼らの魂を救ってください」と祈り、そして「ことは成就した」と言って十字架で死んでいかれました。もしイエスが十字架から降りて味方の軍勢を呼び革命を起こしていたら、一時的にはユダヤの国はイエスを王とする独立国になっていたかも知れません。歴史の中の一事件として、ナザレから出てきたイエスという男が独立を勝ち取ったという記事が歴史の一行に書かれたかも知れません。しかし、それはそれでおそらくおしまいであったでしょう。イエスが十字架について死なれたからこそ、今、全世界にイエスの教えが広がっているのです。

 このようにキリスト教と武士道は非常に近いところにあるということを理解していただけるかと思います。ただ残念なことに、武士道そのものには「神からの救い」や「神の愛」という教えは見えてきません。内村鑑三はこのように述べています。「武士道がキリスト教に触れるならば、キリスト教の洗礼を受けるならば、世界で最も優れた教えになるであろう」と。その通りだと思います。武士道にはまだ限界があります。しかし、イエス・キリストの洗礼を受けるならば、武士道は世界に誇ることのできる一つの人間の生き方を示すものとなるでしょう。死が死で終わらない世界、死が命を満たす世界、それが私たちの本当に求めているところではないでしょうか。

 私たちは、毎日何だか分からずに生かされているような生き方をしていますが、「本当にこれでいいのだろうか」と考えるはずです。その時に、自分の信じることに命を懸けることができるかどうか是非問いかけてみてください。その時きっと、聖書が教えていることが甘いロマンティックなものではなく、あなたは生きることによって死んでいるのか、死ぬことによって本当に生きようとしているのか、というチャレンジをしていることに気がついていただけるのではないかと思います。

(大学チャペル・ウィークでの説教より)

 『青山学報』 200110

「宗教感話」は、『青山学報』に連載されている、学内外でキリスト者としてよいお働きをされている方々に執筆していただいている、エッセイ的な読み物です。 執筆者の肩書きは当時のものです。
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*本文の掲載は、著者より承認を受けています。 2012927日)
*当初(リンク)は、青山学院宗教センターより承認を受けました。
 (
200669日)
井草晋一:ピヨ バイブル ミニストリーズ

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